こんな日の物語

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岡田准一氏主演、現在絶賛放映中の映画「燃えよ剣」



土方歳三、そして新撰組のふるさとである日野市に暮らす私も、
先日この映画を観て参った。少し前の日記にも書いたけれど、
燃えよ剣、凄い映画だった・・・

しかし、その凄い映画が出来上がったのは何より凄い原作があってのことである。
私は映画「燃えよ剣」を観る前に、予習として司馬遼太郎 原作の“燃えよ剣”を読破したが
・・・なるほど、幕末物語の傑作中の傑作と言われるだけあって「燃えよ剣」は

実に 燃えよ剣 であった

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映画も原作も見ていない方からすれば
「コイツ何を言ってんだ?」と思われるかもしれないが、
本当に「燃えよ剣」は、紛うことなく、
まさに燃えよ剣!」という物語なのだ。


燃えよ剣  ざっくりあらすじ________________________

出身は武州石田村(現在の日野市)、百姓の家に生まれた土方歳三は、触れるものは皆傷つけるイバラの垣根のようなヤンチャ者として「石田村のバラガキ(茨垣)」と近所で呼ばれていた。
歳三は義兄弟である近藤勇、沖田総司をはじめとする“天然理心流”道場の仲間達と共に、剣で一旗上げるため京に上り、都の治安を守る部隊「新撰組」を結党する。
そして歳三は新撰組副長の座につき、元は浪人や百姓剣士といった烏合の衆であった隊士らを「違反者は即切腹」という鉄の掟「局中法度」を作るなどして、新撰組を最強集団にまとめ上げた。
新撰組の活躍はめざましく、その名は京に響き渡るも、時代は幕末動乱の時。やがてまた時代は大きく動き、歳三が築き上げた新撰組は少しずつ崩壊してゆくのである・・・
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では、この物語のなにがそんなに「燃えよ剣」で、なにがそんなに魅力的なのか。
これについて6つに分けて、紹介させて頂きたいと思う。



その1〜男の野望に燃える〜
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燃えよ剣はとにかくそのストーリーに燃える。

歴史上、どうあがいても主人公 土方歳三は戦死する運命にあり、それはつまり最初から絶対的な悲劇の結末が待っているのはわかっているのだが、それを一切忘れさせてしまうくらいの熱量がこの小説には詰まっている。

新撰組というのは元々地方の百姓剣士や浪人や集まりであり、要は腕自慢の田舎者達であった。そんな田舎者集団がその腕ひとつで、京都に名を轟かす治安部隊として大成するのだから、新撰組というのはある種 男のサクセスストーリーであるとも言えよう。

そして、この大出世を遂げた新撰組を、実質的に支配ていたのが副長である土方歳三だ。

土方歳三という一人の男の野望と手腕によって、腕自慢の田舎者の有象無象が一つに纏まり、徐々に勢力を増していく様子は男として非常にロマンを感じるものである。劇中、歳三はよく「新撰組は俺の作品だ」と言う。自分の手で最強の軍団を作るというのは、昔から多くの男が持つ憧れであろう。その証拠に、今なおそういったビデオゲームは廃れていない。

そして、この歳三の抱く野望は良くも悪くも真っ直ぐであり「新撰組を最強集団にすること」に一点集中されている。彼は政治や権力といったものはほとんど興味はなく、ただ強さと、戦いに勝つことだけを考えている要するに「新撰組バカ」であった。

果てしなく強さと勝利を追い求める思想。

剣に魂を燃やして生きる姿勢を貫き通す、
その土方歳三の生き様こそが「燃えよ剣」なのである。

この不器用ながらブレない男臭い生き方が、読者の心を熱く燃やしてくれるのだ。


その2 〜剣士達に燃える〜
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燃えよ剣は土方歳三の壮絶な人生に焦点を当てた物語ではあるが、敵味方問わず多くの剣士が登場する。その剣士達がまたそれぞれ個性的で、読むものを楽しませ、物語に愛着を湧かせてくれるのである。

例えば土方歳三のライバルとして七里研之助という剣士が登場する。

七里は歳三がまだ江戸にいる頃に剣を合わせ、以来、常に歳三の命を狙ってしつこく現れる剣客である。彼は勤皇攘夷派であるが、佐幕派の新撰組とは敵対心とは関係なく、純粋に喧嘩として歳三を倒すためにやってくる。
七里の出身は上州(群馬の方)であり、馬庭念流という剣術を操る。馬庭念流もまた天然理心流と同じく農民の間に広まった田舎剣術を操である。七里、歳三、どちらも百姓上がりの剣士という近い境遇にあり、彼らは互いの実戦特化の剣でを駆使して幾度も剣を交える。
この二人の因縁の戦いも、まさに「燃えよ剣」である。

また、新撰組の元総大将、芹沢鴨もまたいい味をだしている。とんでもねぇ悪党ながらどこか知的でもあり、また不思議な愛嬌があって憎めない。芹沢が暗殺されるシーンは、やっぱり少し悲しさを覚える。

もちろん、新撰組の隊士達も小説の中では生き生きと描かれている。歳三といつも対立するインテリの山南敬介、熱血漢の永倉新八、ひょうきん者だが情に厚い槍使いの原田左之助、諜報部隊の山崎丞、新撰組崩壊後も歳三と共に戦った斉藤一など、様々な隊士も活躍を見せてくれる。


その3 〜戦いに燃える〜
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「燃えよ剣」というタイトルから想像されるとおり、この小説の一番の見せ場はなんと言っても男達の戦いである。司馬遼太郎の戦闘描写というのは当たり前ながら非常に秀逸で、とにかく戦闘シーンが熱いのである。

恐ろしい速さで行き交う刀の閃き、力強さ、戦いの壮絶さが、まさに真剣での命のやりとりをしているというスリリングな瞬間が文章からビシビシと伝わって来る。しかし、燃えよ剣の戦いの面白さはチャンバラだけではない。

土方歳三は前述のように天性の喧嘩の才能を持っており、屈強な剣士であると同時に、優れた軍略家でもある。つまり、むやみに剣の腕っ節だけで戦いを挑むのではなく、いかにしてその戦いに勝利するかを考える男だ。

たとえば歳三は複数人数と喧嘩をするときに、よく地面に枝などで地図を描く。地形や敵の配置をしっかり考え、勝つ算段を立てて戦いを挑むのである。それもまた三国志の諸葛亮のようなインテリ風ではなく、歳三の場合、幼少よりケンカに明け暮れて身につけたセンスであるという所がまた男心をくすぐる。

劇中、このような歳三の絶妙な知略戦は随所に見られ、一見不利な戦いを優位に運んだり、戦況をひっくり返してしまうのがまた痛快である。


その4 〜恋愛に燃える〜
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映画と原作の一番の大きな相違点は、歳三の女癖かもしれない。
歳三は男女の秘事について「トシは猫だよ」と、しばし言われている。

「猫」というのは男同士のソレにおける受け役という意味ではなく、人前では男女関係を一切匂わすことはせず、一見硬派で堅い男にみえるけれど裏ではしっかりヤっているというものだ。

女癖と言っても、歳三の場合、言葉は悪いが所謂ただのヤリチンとは違う。歳三はコマしたオンナの数だの良いオンナと寝ただのではなく、身分の高い女性に惹かれて手篭めにしたいという性癖を持っている。そして歳三はその“目的”のためにはあらゆる労力を厭わなかったが、歳三のそういった「狙った獲物は〜」的な女癖は時に自身を窮地に追い込むことにもなった。

そんな歳三は自身のことを「一生恋をすることができない男」と考えていたが、京で一人の女性に出会う。名を「お雪」と言い、東国出身の絵師であり、未亡人であった。二人は惹かれ合い、歳三はちょくちょくお忍びでお雪の家に通うようになる。
歳三はこれまで抱くために女に近づいてきた男だが、お雪に対しては心から惚れてしまったため、なかなか手を出せない。鬼の副長と恐れられた男もお雪の前では嘘のように優しく丸くなってしまう。
このギャップが見ていて非常に微笑ましい
そして二人は二人の仲でだけ、束の間の夫婦として愛を育むのだが…

しかし、戦記物語のお約束で、二人の間は戦によって引き裂かれてしまうのである。だが、一途なお雪は、転戦する歳三を追いかけてゆく。殺伐とした戦乱の中において、歳三と我々読者にとって一瞬の救いとなる二人の愛。これも、この物語では見逃せないポイントである。歳三がお雪に抱く燃えるような愛、これこそまさに歳三の「燃えよ・・・、いや、なんでもない。



その5 〜近藤、沖田との絆に燃える
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新撰組局長の近藤勇、副長の土方歳三、そして一番隊組長の沖田総司。
新撰組といえば、やはりこの三人である。
彼らは三人は天然理心流の修行を通し出会い、
天然理心流の仲間の中でもとりわけ深い絆で結ばれている。
歳三は、近藤勇とは義兄弟として、
また、年下の沖田総司は弟のように可愛がっていた。


歳三は近藤の不器用なまでに武士らしい所が好きだった。そのため歳三は、近藤を新撰組の頭とするため、汚れ仕事や嫌われ役を一手に引き受け、新撰組を最強集団へとまとめあげていく。

しかし、皮肉なことに新撰組が活躍し、勢力を増すにつれ近藤は少しずつ変わっていった

近藤は新撰組の地位もが向上したことで権力者と交流する機会が増え、これにより新撰組のことより政治や時勢に興味を持つようになり、かつてのような武士の姿から遠ざかっていく。そして、歳三と意見がすれ違うことが多くなり、少しずつ二人の間に距離が生まれていくのである


一方、新撰組で辣腕を震い自身に反感を持つ者も少なくない中、いつも歳三のそばでニコニコ笑って一緒にいてくれる沖田総司。鬼の副長と恐れられる土方歳三はも沖田総司だけには弱かった
歳三は自分を全く恐れない総司にしょっちゅうからかわれているが、ついつい純粋で人懐っこい総司に心が絆されてしまい「やはり総司には敵わない」といつも負けてしまう。また、歳三は誰にもいえないような恋愛の話なども、総司だけには話してしまう仲である。

だが、そんな総司もやがて病魔に侵されていく。総司は床に伏し、戦場には出られず一日中布団の中で過ごすことになる。

こうしてこれまで固く結ばれていた三人が、悲しくも時が進むにつれ今までとは違う道を辿るようになっていくのである。ここは、ちょっと、切なくて燃えることはできないな。。。


その6 〜歳三の生き様に燃える
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よく世間では土方歳三を「最後まで幕府のために戦った忠義を貫き通した男」として扱われているのを見るが、この物語の中では少し違う。
「燃えよ剣」の土方歳三は、政治や国の行末の事などについては全く興味を持っていない。歳三は生まれながらの喧嘩師であり、新撰組を最強に仕立て上げ、向かいくる敵を倒し勝つ。それが全てであった。

とても優秀な人物であるのは間違い無いが、戦いの中でしか生きられない酷く偏った男であるとも言える。

正直言って、我が身滅びることを分かっていて、尚もその生き方をやめず死地に突っ込む歳三の人生観は、おおよそ人生の手本にできるとは言い難い。

だからこそ、全身全霊で自分の信念のために生きた侍なのだ。
だからこそ、男として憧れを抱いてしまうのだろう。


「滅びの美学」という言葉があるけれど、燃えよ剣の土方歳三の散り方は、その一言では片付けられない「男の美学」がある。

私は、とても歳三のようには生きられないし、そういう生き方をしたいとも思えない。
ただ、小説の中とはいえ、かつてそのような男がこの日本で、燃えたぎる誠の志を込めた剣を掲げ、信念を貫き通し生きて死んだのだろうかと思いを馳せると、心が震えざるを得ない。




さて、

今年の読書の秋は、真っ赤に色付く紅葉のように、
燃えるような熱い一冊、「燃えよ剣」はいかがだろうか。


上下巻でホントは二冊だけど。。。

映画 燃えよ剣 は、まさに小説「燃えよ剣」の映画化作品であった

当たり前だろ、という話だが事実そうなのである。この映画は司馬遼太郎の小説を化したものではなく、映したものだ!と強く衝撃的に感じた。


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映画「燃えよ剣」絶賛放映中

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昨晩、私はついに映画「燃えよ剣」を立川シネマシティで観賞してきた。
映画館に行くなんて実に15年ぶりである。
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それにしても・・・燃えよ剣、凄ぇ映画だった。

というわけで今回は、「燃えよ剣」がどんな凄ぇ映画だったか、感想と見所をざっくり5つの項目でまとめてみたいと思う。題して・・・・


映画「燃えよ剣」5つの “ここが凄い!”
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ここが凄い -その1- 
小説の映化ではなく映化である

これはまさに言葉の通りである。

今回の映画「燃えよ剣」は、司馬遼太郎の小説をただ映像にしたものではなく、まさに“映画”として練り上げ、作り上げられた作品だと強く感じた。侍の格好をしたイケメン達が、小説通りに動き、剣を振るい、死に、泣かせるといった必要ノルマを達成すれば良しというアリガチなものではない。
ガチモンの本気で作られた「映画」である。
とにかくスケールがでかい。セットやロケーション、衣装、演出、なにからなにまで美しく、そして壮大である。また、日本人たる感覚に呼びかける江戸幕末の日本「らしさ」がとてもリアルな映像に落とし込まれていて、観ている者を ぐわおっ とその世界に引き込んでくる。さらに金と時間と技術をおしみなくブチ込んだような戦闘シーンの大迫力たるやとにかく圧倒されっぱなし。
これは原作を読んで思い浮かべた想像を遥かに超えるものだった。まさに超大作「映画」とはのことである。


ここが凄い -その2-
壮大かつ豪華な舞台

映画「燃えよ剣」を「映画」たらしめているものは、まさにその舞台であると思う。“その1”でも言ったように、とにかく背景が美しく、スケールがでかい。青々とした自然や、戦場となる広大な平野、美麗な建築物、これらのバックが非常に力強く幕末という舞台を盛り上げ、支えてくれている。この舞台があってこそ「映える画」すなわち「映画」としてこの世界観が出来上がり、だからこそ、まるで幕末の人々が乗り移ったかのような俳優達の芝居が生まれるのではなかろうか。

とにかく、うっわ、すっげ!やっべ!と感嘆しっぱなしあった。


ここが凄い -その3-
役者がハマまりすぎ!

とにかく俳優陣が素晴らしい。ただイケメンや話題の人を起用するなどではなく、本当に、本当っぽい人が来てしまった、という配役であった。本当にびったしハマってて見事だった。

小説から、あるいは本人が過去からやってきたんじゃないか?というくらいに、それぞれの俳優達の芝居は、まさに侍の精気に満ち満ちた雰囲気を醸し出していた。

主役 土方歳三役の岡田准一氏は、演技、アクションだけではなく、やはり圧倒的な華があり、映画全体を支配するその存在感が遺憾無く発揮されていた。

近藤勇役の鈴木亮平氏はまさにまさに近藤勇かのような、素朴さと剛気さと実直さを見せ、沖田総司役の山田涼介氏は小説からそのまま飛び出てきたかのような瑞々しい純粋さと剣のような鋭さを自然体で演じ、そして伊藤英明氏演じる芹沢賀茂の悪漢具合ときたらもう恐るべき怪演であった。

また、藤堂平助をはんにゃの金田氏、山崎丞をウーマンラッシュアワーの村本氏と、新撰組において重要な人物にお笑い芸人を充てるという、一見すれば奇をてらったかのように見える配役も実に役にハマっていて、両名の芝居は誠に堂に入った素晴らしいものだった。

個人的には、特に人物紹介されていなかったけれど「島田魁だ!」と人目で分かった島田魁が、いかにも島田魁らしい風貌でちょっと好きだった。



ここが凄い -その4-
圧巻のアクションシーン

アクション、殺陣が凄い!とにかく剣!剣!剣!剣!
刃入り乱れるアクションは、圧巻であった。その剣劇は、よくある時代劇のような華麗なものではなく、命を取るか取らるるか、ある意味本当の正しき剣の使い方を見せられているかのように苛烈で生々しい。演ずるために振るっているのではなく、相手を絶命させるために振るうかのように、まるで侍の魂が役者に憑依しているかのような迫真の殺陣であった。

私は剣術に明るくは無いし、実際に天然理心流がこの映画でしっかり天然理心流の剣として描かれていたかはわからない。しかし、試合では弱いが実戦では滅法強いと言われる天然理心流の、実戦特化した田舎剣術らしさが実によく描かれていたように思う。
原作小説でも、土方歳三は天然理心流に様々な流派のアレンジを取り入れ、独自の剣を使うという描写があったが、そういった“なり振り構わない” 荒々しく強烈な剣がこの映画では描かれていたと思う。

また、市街戦や平野で闘うシーンも凄まじい迫力で、セットやロケ地のスケールの大きさは勿論のこと、人間達の血生臭い怒気漂う空気感がこの映画の圧巻のアクションシーンを作っていた。



ここが凄い -その5-
壮絶なラストシーン

「うわ!そうきたか!」
というラストであった。
これは原田監督の哲学というか、信念めいたものを感じずにはいられなかった。

ネタバレはできないので、詳しくは言えないが原作小説とは違うラストであった。物語が改変されているというのではなく、描写の仕方が違う。これは恐らく、原作を読んだ者にとってこそ、全く予想しなかった終幕であると思う。もしかすると、原田監督は狙って原作ファンの予想を裏切るラスト描いたのでは無いかと思う。

やっぱり「映画」なのだな・・・と、思った。ビジュアルとして、最後に心を突き刺してくる。この壮絶なラストに私は衝撃を受け、その帰り道、電車に乗り、家に帰ってもなお、ずっと放心状態で、ひたすら ぼ〜〜〜〜〜〜〜っとするだけであった。

泣ける、感動する、そういったものを遥かに超えた衝撃であった。


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人には好みがあるので、とにかく無責任に「凄い感動するよ」「絶対見たほうがいいよ!」と勧めることはここでは申しませぬ。ただ一言・・・


この映画は凄いョ。 

それだけを伝えたい。

役者から制作陣に至るまで、この映画の全てが “侍” であった。
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